シマノ社史
シマノ会長・島野喜三(島野庄三郎の三男)著 「私の履歴書」より、自転車と関連のある部分を抜粋。
- 1921年
- 幾つかの工場で働き腕を上げ、第1次大戦後の不況期に、島野庄三郎が大阪府堺市において、自転車部品の島野鉄工所を創業。フリーホイールの生産、販売を始める。「海の向こうには必ず行くんや。世界の島野になるんや。と言っていた。」
- 1963年
- 米国のコロンビア社と主力商品3スピードハブ(内装3段変速機)の年間10万個契約が成立。
- 1965年
- 米国シマノを立ち上げ。喜三社長、本谷副社長および秘書兼事務嬢の3名。
- 1970年
- 山口県の下関工場を50億円投資して建設。
- 1972年
- 西ドイツに欧州シマノを開設。
- 1973年
- デュラエースを発売。「ジュラルミンとデュラビリティ(耐久性)という単語からデュラという言葉が浮かび、これとエースを組み合わせた。」「欧州の本格的なレーシングチームのスポンサーになった。レースで自転車は私たちが思っても見ない過酷な使い方をされていた。多くの部品が磨耗、破損した。何100kmを走り、時に数秒差で着順を競う。送られてくる詳細な報告を基に改良が続いた。次第にデュラエースは認められ、レースの世界に浸透していった。」
- 1974年
- シンガポール工場が稼動。「5年間赤字が続き、軌道に乗るのに約10年かかった。尚三さん(長男)は撤退まで考えたが、敬三さん(次男)が反対した。」
- 1974年
- ロサンゼルスに、修理部品とアフターサービスの専門会社を設立。
- 1982年
- カセット式フリーハブを中心にした初のMTB専用部品コンポ、「デオーレXT」が完成。「MTBは76年頃、サンフランシスコ郊外、湾に面したマウント・タムと呼ばれる山で生まれた。ゲイリー・フィッシャー、ジョー・ブリーズ、トム・リッチーといった若者たちが、野山を走るため、太いタイヤなどを付け改造した自転車が原型である。79年秋、おかしな自転車の乗り方がはやっていると聞いて、私もこの山に出かけた。彼らは夢中になって、自転車で山道を登り、走り下っている。MTBはもともと彼らの手作りである。しかし、山道を走るには、山を登るギアと変速機、よく効くブレーキが必要だった。フレームのほか、あらゆる部品が丈夫で泥や水に強くなくてはならない。毎日のように部品を壊していた彼らは、これまでにない部品を求めていた。私たちは彼らとつき合い始め、要望に応じて部品を提供するようになった。」「1980年代半ばからMTBは爆発的に伸び始める。私たちが専用部品を発売したころは数社だったのに、各社がMTB関連製品を扱いだした。全米各地でMTBのレースも盛んになった。普及と販売に全米を駆け回った。MTBブームはたちまち欧州に広がった。欧州でもMTBに関しては、米国製が"本場もの"と認められた。輸入業者たちは、"シマノの部品が着いたMTBを"と言うようになった。自転車発祥の地、欧州で人々が"米国製でなくては"と言うなど、夢にも思わぬことだった。MTBの人気は、欧米から日本へ、さらに中南米、東南アジアまで広がった。世界中のメーカーがMTBを作り初めた。私たちに一日の長があった。日本で増産体制を整え、本社の空いたスペースは生産設備で埋まった。海外の生産拠点もフル稼働した。高級品から普及品まで、あらゆるタイプに対応した部品を供給した。90年の輸出は3年前の3倍以上、千億円を超えた。ピーク時には、MTBを中心に、全世界で年間数千万台分の変速機を供給したのではないだろうか。シマノの売上げの伸びも驚異的だった。」
- 1991年
- 創業70周年を機に、社名を島野工業からシマノに変更。
- 1992年
- 中国の昆山市にシマノ昆山を設立。94年に工場が稼動。「この時、同時に進出したのが、やはり中国で工場建設の計画を持っていた台湾の大手完成車メーカー巨大機械工業(ジャイアント)である。ジャイアントとは古くからのつき合いである。互いに率直に意見を言える仲で、劉金標会長と私は同じ年である。中国進出にあたっては、劉会長たちに様々な面でたすけてもらった。」
- 1992年
- 「堺市の大仙公園に、自転車博物館・サイクルセンターを開設。」「足で地面をけって走った最も古い木製自転車から、最新の自転車まで百台以上を展示している。このベースは、オランダの名門自転車メーカー、バタバス社のコレクションである。バタバスのガーストラ社長は、欧州の古くからの自転車を収集しており、それは素晴らしいものだった。親しかった彼に、半ば冗談で「絶対に手放してはいけません。でも万が一、そんな時があれば、うちにひと声かけてください」と言ったことがあった。数年して、彼から声がかかった。私たちは博物館構想を持っていたので、彼のコレクションをそのまま引き取った。」
- 1994年
- 「1993年にMTBブームがピークを過ぎ、やがて円高が進行、大幅な減収減益になった。」
- 1997年
- 「クランクが、体重の重い人が強く踏み続けると折れるという事故が発生しているとの報告があった。7、8年前に発売した製品で、その苦情がポツポツ出ていた。検査をすると、金属疲労を生じることがわかった。」「私は人身事故が起きる前にリコール(回収・無償修理)することを決めた。大変なエネルギーを必要とするものだと思い知らされた。」「世界各地で新聞、テレビ、雑誌で消費者に告知。連絡先を決め、小売店には取り換えなどを頼む必要がある。リコールのやり方、手続きも各国で違う。それぞれで弁護士を依頼した。」「実質的には約1年で収まったが、準備から処理まで大変な作業で、影響は全社に及んだ。経費だけで10億円を超えた。」「企業にとって、自らの非を認め、オープンにすることは勇気のいることである。でも、それができるかどうかが、企業にとっての勝負でないかと思う。リコールで、私たちはさらに強くなった。いまシマノは、不適合品発生率百万分の3.4を目標にした6(シックス)シグマ運動を進めている。」
- 1997年
- 「百数十人いた管理職を対象に希望退職を募った。約20人がやめた。」
- 1999年
- 「40才以上の一般職にも対象を広げ、ほぼ半年で約150人が応募、足かけ3年で170人ほどが退職した。」
- 1999年
- ツール・ド・フランスでランス・アームストロングが優勝。「この99年が、私たちにとっても初のツール優勝だった。80年代後半から、シマノの部品を装備した自転車は世界のレースで、次々に優勝した。ところがツールだけは勝てず、くやしい思いをしていた。彼の優勝に、胸のすく思いだった。」「ツール・ド・フランスは1903年から開催、ジロ・デ・イタリア(イタリア)、ヴェルタ・エスパーニャ(スペイン)と並ぶ世界三大自転車ロードレースの1つである。毎年7月、約3週間にわたってフランス全土を舞台にレースを争う。コースは全長3千~4千km、アルプス越えもあり、最も過酷なレースと言われる。出場できるのは世界トップクラスの選手だけ。過去、日本人で出場したのは1人だけである。(2005年に)7連覇を成し遂げたランスと私たちの縁は深い。彼が10代で、トライアスロン選手として頭角を現し始めたころからのつき合いである。私たちは当時から注目、彼の自転車に部品を提供していた。」「レースは人間と自転車が一体となっての戦いである。選手は少なくとも、登り・下り、平地、タイムトライアル用と三種の自転車を用意してレースに臨む。それにしても、こんな山道を人間の力で登れるものだと感心した。」
自転車業界のインテル
「週間ダイヤモンド」2009年、9月26日号より、転載。
自転車業界のインテル--。シマノは、しばしばこのように評される。自転車部品のトップメーカーであり、世界中の自転車完成メーカーにコア部品であるブレーキ、ギア、変速機などを提供しているからだ。 ズバリ、自転車の性能と価格は、シマノ製のハイグレード部品をどれだけ搭載しているかでほぼ決定してしまう。大規模なレースでもシマノを選ぶ選手が5~8割は占める。シマノが提唱する規格は事実上の世界標準であり、 実質的な自転車業界のリーダーといっても過言ではない。
その強さの秘密は、徹底的な顧客主義と現場の強さといわれる。たとえば、あるベテラン社員は、もう25年以上も前に見た光景を忘れられない。三代目社長だった故・島野敬三が開発担当だった頃だ。 女性用自転車の試乗会で、敬三はなんとスカートとハイヒール姿で登場、居合わせた社員らの度肝を抜いた。1991年の創業70周年のパーティでは、シマノの経営に携わる島野三兄弟、長男の尚三、次男の敬三、 末っ子の喜三が三人乗り自転車に乗って登場するという演出が行われたが、他の2人がタキシードに革靴だったのに対し、敬三だけはレース用シューズを履いていた。 むろん、変わり者だったというわけではない。根っからの技術屋だった敬三は、常に顧客の立場となって製品を試していたのである。
シマノが英語を公用語とするほどの世界企業となったのは、自転車の国内需要が激減するなか、海外に活路を見出そうとした65年の米国進出がきっかけだった。
当時、社長だった尚三は長期的な世界戦略を描き、喜三に米国での陣頭指揮を命ずる。そこで、スタッフらは、情報収集のために米国内に約6000店ある販売店を3年間かけてほぼすべて回り切るという荒業をやってのけた。
その苦労はムダではなかった。当時、黎明期にあったマウンテンバイク(MTB)の情報をつかみ、シマノはいち早くMTB用部品を開発・供給することで、後の爆発的なブームに乗った。
一方、欧州市場を中心とするレーシング部品では、イタリアのカンパニョーロ社がトップとして君臨していたが、シマノはブレーキレバーと一体型の変速装置(STI )を独自に開発、手元でより速く、確実にギア変速ができるようにした。
一部の保守的な選手は嫌ったが、一刻を争うレースでは、速くて確実な操作が勝敗を分ける。各地のレースでシマノ製部品を使う選手らが好成績を収め始めた。ロードレースの最高峰であるツール・ド・フランスでは、 2005年にシマノ製部品を使用したランス・アームストロングが7連勝としう偉業をなし遂げ、シマノの評価は欧州でも不動のものとなった。
もっとも、シマノの自転車部品は、こうした高級部品にとどまらない。じつは軽快車などの低コスト部品のシェアも高い。ある自転車メーカーの幹部は「高級部品だけでなく、低コスト部品もあったからこそ、 今日のシマノがあるのだろう」と分析している。
会社概要
- 本社
- 大阪府 堺市 堺区 老松町 3-77
- 工場
- 山口県下関市など、
- 事業(2009年)
- 自転車部品79%、 釣具20%、他1%、 (ゴルフ用品は撤退)、 輸出 : 90%、
- 従業員数(2009年)
- (単独) : 1,080人 、(連結) : 9,150人
- 資本金(2007年)
- 356億円
- 売上高(2007年)
- (単独) : 1,684億円、(連結) : 2,118億円